漆山家の歴史(2) 「脱藩」
代々最上家に仕えていた当家が、なぜ米沢領に移り住むことになったのか。
私の父 二十三代 秀雄は、晩年当家の歴史を調べるなかで、東置賜郡史の一頁にその答えをみつけていました。
概要は次のようなものです。
「先祖は最上出羽守義光の嫡子七郎の近習を勤めていたが、諫言を理由に手討ちにされたため主人を恨み、天正年中に妻子を連れてこの領地に来た。そのとき、小瀧村禿(ツブレ)跡地の開作を申し渡され、それから村の方に住むようになった。」
*諫言(かんげん):目上の人に誠意をもって忠告すること
*手討ち:自らの手で切り殺すこと
七郎は最上義光の長男 義康の幼名、近習(きんじゅう)はそば近くに仕える者のことで初代の息子と思われます。
最上家の後継者に仕えていたことからみて、当家が世臣(代々仕えている家臣)だったとする過去帳の記述に間違いはないのでしょう。
諫言の内容がどのようなものだったか知る由もありませんが、身内ともいえる者の忠告に腹を立てて手討ちにしたとすれば、義光はまさに非道な君主。
「最上家のために役目を果たそうとした若者と、息子の死を悲しみ無実を信じて脱藩を決意した父」。
子孫の端くれとしてはこのように解釈しないわけにはまいりません。義光が謀略のために身内を次々に殺害した史実を挙げるまでもなく。

初代が米沢領に移り住んだとされる天正年間は20年ほど続いており、最初の17年は伊達一族が、後の3年は蒲生郷安が米沢城主として一帯を治めていました。
初代が移り住んだ当時の城主が誰だったのかはわかりませんが、受け入れ後の初代の処遇について城内で話し合われたことは想像に難くありません。
「どのような事情があったにせよ、昨日まで最上の家臣だったものを懐に入れるわけにはいかぬ」。
米沢から遠く離れ、最上領との国境に位置する小瀧村に入封されたのはそういうことでしょうか。
なお、移り住んだ当初は、現在の南陽市小滝から2㎞ほど南にある赤山地区の一角に居を構えていたと伝えられています。
私の父 二十三代 秀雄は、晩年当家の歴史を調べるなかで、東置賜郡史の一頁にその答えをみつけていました。
概要は次のようなものです。
「先祖は最上出羽守義光の嫡子七郎の近習を勤めていたが、諫言を理由に手討ちにされたため主人を恨み、天正年中に妻子を連れてこの領地に来た。そのとき、小瀧村禿(ツブレ)跡地の開作を申し渡され、それから村の方に住むようになった。」
*諫言(かんげん):目上の人に誠意をもって忠告すること
*手討ち:自らの手で切り殺すこと
七郎は最上義光の長男 義康の幼名、近習(きんじゅう)はそば近くに仕える者のことで初代の息子と思われます。
最上家の後継者に仕えていたことからみて、当家が世臣(代々仕えている家臣)だったとする過去帳の記述に間違いはないのでしょう。
諫言の内容がどのようなものだったか知る由もありませんが、身内ともいえる者の忠告に腹を立てて手討ちにしたとすれば、義光はまさに非道な君主。
「最上家のために役目を果たそうとした若者と、息子の死を悲しみ無実を信じて脱藩を決意した父」。
子孫の端くれとしてはこのように解釈しないわけにはまいりません。義光が謀略のために身内を次々に殺害した史実を挙げるまでもなく。

初代が米沢領に移り住んだとされる天正年間は20年ほど続いており、最初の17年は伊達一族が、後の3年は蒲生郷安が米沢城主として一帯を治めていました。
初代が移り住んだ当時の城主が誰だったのかはわかりませんが、受け入れ後の初代の処遇について城内で話し合われたことは想像に難くありません。
「どのような事情があったにせよ、昨日まで最上の家臣だったものを懐に入れるわけにはいかぬ」。
米沢から遠く離れ、最上領との国境に位置する小瀧村に入封されたのはそういうことでしょうか。
なお、移り住んだ当初は、現在の南陽市小滝から2㎞ほど南にある赤山地区の一角に居を構えていたと伝えられています。
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