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漆山家の歴史(3) 「慶長出羽合戦」

 慶長5年(1600)9月、”関ヶ原の戦い”で徳川家康側の東軍と石田三成側の西軍が対峙していたまさにその時、現 山形市南部の長谷堂地区を舞台に、東軍の総大将 最上義光と、西軍を率いる上杉家家臣 直江兼続が死闘を繰り広げていました。後に”慶長出羽合戦(長谷堂合戦)”と呼ばれる東北有数の戦です。
 関ヶ原の東軍の勝利が伝わると優勢だった上杉軍は撤退しますが、上杉の大軍の猛攻を凌いで山形の本城と町を戦火から守った長谷堂城主 志村伊豆守光安(しむらいずのかみあきやす)は、最上軍の名将の筆頭に挙げられています。

 長谷堂合戦図屏風/右隻(長谷堂城を攻撃する直江兼続)
長谷堂合戦右隻

 当家初代の漆山丹波親次郎左衛門が上杉領の小瀧村(現 南陽市小滝)に移り住んだのが天正年中(1573~1592)、没年が合戦から8年後の慶長13年(1608)なので、初代が合戦当時この地に生きていたことは確かでしょう。
 小瀧村は長谷堂城までの距離が10kmほどで、当時の上杉領のなかでは戦場に最も近い場所の一つです。

 しかし、初代はこの合戦に参陣していませんでした。

 東置賜群史には、敵将の最上義光が元の主であることから出陣を免れ、かわりに、旧知の山形城や周辺の城のことを尋ねられ詳しく説明したとあります。
 また、合戦終結後には上杉と最上との和睦交渉に関わり、後に見返りとして上納金等の一部免除と、名字帯刀の上の褒章となる馬上(馬に乗ること)を許されています。
 さらに、同史には、志村伊豆守が当家の縁者(親類)だったことから、初代が和睦交渉に選ばれたと記されています。
 伊豆守が初代と同じ山形市北部の漆山地区の出と推察されていることは、両家の親類関係を裏付けているのかもしれません。